マンザナーを訪ねて

当時と同じデザインのサインのようです

第二次世界大戦中、真珠湾攻撃をきっかけとして、日系人、在米日本人は、全米に十箇所作られた強制収用所で暮らすことを余儀なくされていました。Manzanar War Relocation Centerはそのうちの一つです。Yoくんは、高校時代に矢野徹さんのノンフィクション「442連隊戦闘団 進め!日系二世部隊」を読んでから、この地を踏むことを願っていたので、かれこれ二十年越しの実現となりました。
現在は歴史施設として、かなり良い状態で保存されていて、予想よりも多くの人が訪れていました。国立公園局の管轄下にあります。

展示のしょっぱなに、Racismについての大きな写真があり、あまりの赤裸々さ、言葉の鋭さにぎょっとしました。

ダウンタウンロサンゼルスのJapanese American National Museum(全米日系人博物館)で感じた驚き、悲惨さ、というよりは、もう少しカラッと明るく、人々が楽しんで暮らしていたように思えるようなスポットライトの当て方です。バラックの前に花壇を作って彩りをつけたり、近所のアメリカ人たちが訪ねてきてアメフトの試合をしたり。たくさんの写真の多くは、収容されていた一人である宮武東洋さんによるものでしょうか。


一方で、トイレへ行くと当時のこんな写真が飾ってあり、やはりどう考えても、自由を拘束されたこのような生活を認めることができない、と思います。アメリカと戦っていたのは、独伊も同様だったのに、強制収用されたのは黄色人種である日本人だけだったのですから。

バラックも少しは建て直されたものが残っています。館内の展示の中では、かなりゆとりのあるように設えてありましたが、砂埃がどんどん吹き込む、隙間だらけの建物です。

実際は相当酷いものだったでしょう。これは、リトルトーキョーの全米日系人博物館での展示です。戦後、払い下げられた民間人が納屋として使っていたものです。

私はあまり聞けませんでしたが、マンザナーに住んでいて、最近本を上梓したHank Umemotoさんの講演会がありました。八十代の男性ですが矍鑠としていらっしゃり、お住まいのLAから一人で運転していらしたとのこと。詳しくはこちらはご覧ください(→)。

Manzanar to Mount Whitney: The Life and Times of a Lost Hiker

Manzanar to Mount Whitney: The Life and Times of a Lost Hiker

その間、けーは何をしていたかと言うと、当時使われていた消防車と戯れていました。

慰霊塔。これを題材にしたアンセル・アダムスによる写真が有名ですね。周囲には十基ほどのお墓がまだ残っています。

裏側です。「千九百四十三年八月 満座那日本人建之」

LAに帰ってきてから、ダウンタウンの東側にある古い墓地も訪ねました。第二次世界大戦以前からの日系人の方々も多く眠っている場所です。凄まじい死亡率、負傷率の442連隊、100大隊の方々のお墓も並んでいました。余談ながら、先日亡くなられたダニー井上上院議員は、正に死線を越えていらした方なのだ、と追悼記事を読んで、改めて思ったことです。これは、リトル・トーキョーにあるGo for Brokeの記念碑です。「当たって砕けろ」という合言葉で戦ったのです。

アメリカの忠誠を試す質問書が配られた後の、一世の親世代と二世の子世代の対立は、今の私たちにも起こりうることだし、その結果、自分たちの忠誠を示すために、ほぼ死にに行くといって等しい戦いへ子たちが出かけるのを見送る親心・・・・。山崎豊子さんの「二つの祖国」でも取り上げられている問題で、近くは日本のテレビドラマでも題材にとられていましたから、少しは日本の方もご存知でしょう。西海岸を訪ねることがあれば、マンザナーが難しくてもLAにある博物館と記念碑を、少しの時間でも訪ねていただけたら、と思います。

在米八年目というのが長いのか短いのか分かりませんが、初期の頃に比べると随分考え方が変わったと思います。日本人として気楽に生活できるのは、これまでの日系アメリカ人、在米日本人の方々の足跡があってこそ、といつかReiさんがおっしゃった言葉を噛み締めることです。
いろいろな歴史の絡まりあいがあり、思いが交錯し、書きたいことがまだ十分まとめられていないのですが、このようなものでも今の気持ちとして残しておこう、と記録に残します。何よりも、私自身が他人に同じような苦難を与える立場にならないように、肝に銘じなくては、という気持ちを強く持ったマンザナー訪問でした。