祖国へ、熱き心を―東京にオリンピックを呼んだ男

祖国へ、熱き心を 東京にオリンピックを呼んだ男 (講談社文庫)

祖国へ、熱き心を 東京にオリンピックを呼んだ男 (講談社文庫)

初めて和田勇さんの名前を聞いたのは十月、ボランティア先での昼食会でのことでした。食後に皆で歌おうと居住者の歌集から何曲か合唱した中に、「ご存知 和田の勇さん/同胞愛の申し子で 仲間語らい/このホーム 立派に建ててくれました」という詩があり、首をかしげていると隣席のid:tokyokidさんが貸してくださったのがこの本です。
1907(明治40)年ワシントン州生まれのフレッド・和田勇さんは、日系二世として類まれなリーダーシップと行動力で戦前戦中戦後を生き抜いた、正に情熱の人と言えましょう。第二次世界大戦中は、二つの祖国の狭間でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、100人程度の日系人を連れたユタ州では苦難の開墾の日々を送ったといいます。志願兵以外で強制収用所に入らなかった日系人の存在を、私は初めて知りました。
また戦後まもない1949(昭和24)年、古橋広之進フジヤマのトビウオとして勇名を馳せたロサンゼルス水泳大会での宿舎の提供を皮切りに、訪米する全ての日本人運動選手がお世話になったといっても過言でないほどの奉仕を行います。その際たるものが、東京五輪誘致のために夫人同伴で中南米諸国への自費行脚をしたことでしょう。その結果、票が集まり、アジア初の東京五輪が実現し、高度成長の一つの大きな歯車ともなった功績はもっと知られてよいかもしれません。
もちろん米国人としての活動も同様に行い、1976年の五輪をLAに誘致するために運動し、その折に名誉職として肩書きをもらった市の役職も疎かにせず全うします。湾岸委員として、日本の港と繋がりを作ることによって双方へ利益をもたらし、日米関係の取持ちをするという活躍ぶりは和田さんの面目躍如といったところ。湾岸委員長辞任の時はロサンゼルス市議会が全会一致で前代未聞の留任決議をするなど、米国人からの人望も厚かったといいます。
 人生の後半は、先の中南米行脚の途上にブラジルはサンパウロ郊外で見かけたユダヤ系老人ホームに構想を得て、苦労した一世たちの終の棲家を作ろうと老人ホーム作りに奔走します。それが、現在のKeiro Retirement Home。日本のホームと格段の設備を持っていることなどはこちらこちらに書いたとおりで、それは和田さんとその周囲の方たちの人脈と努力の賜物であり、日本からも相当な額が送られていることをこの本で知ったのでした。
 抑制の効いた文章がとても読みやすい一冊。米国社会にしっかりと根を下ろし感謝の念を忘れず、滅私奉公した和田さんの人生から、数珠のように歴史が繋がっているさまを見事に描き出しています。(私にとっては、現在住所から近い高校が文中に登場することも感慨深いものでした)。