LA→Phoenix, AZ:第二次世界大戦について考える

風車がたくさん。

クリスマスの翌日、朝ごはんも食べずに車に乗り込みます。目指すはアリゾナの州都フェニックス。I-10をひたすら東に向かいます。右の写真はパームスプリングスの辺り、フェニックスはここから更に241マイル(388km)という表示も見えます。まだまだです。途中で休憩したIndioに偶然、General Patton Memorial Museumがありました。

第二次世界大戦で陸軍の大将だったパットン将軍は私たちがドライブしてきた途中の町San Gabrielの生まれですが、なぜこんなところに記念館があるのかというと、第二次世界大戦時にこの辺りで演習をしていたからと思われます。この辺りと一言で言っても、カリフォルニア南西部からアリゾナ州南西部さらにはネバダ州まで最大距離で、東西350マイル(560?)、南北250マイル(400?)にも及ぶらしく、何だか良く分からない広さです。
この記念館の目玉は沢山の戦車です。



韓国戦争、ベトナム戦争という言葉が良く解説に出てくる中で、これは第二次世界大戦時のもの。

ボストンダックツアーで鈴子が運転したダックも元々は戦争で使われていたものでした。これはどう見ても初期型。

ソビエト連邦のものまで。

一角には祈りの場所がありました。

室内には弾丸や・・・

ナチス関連のもの。

日の丸もありました。「対美国開戦三首倡者 為当時三軍閥 東条英機 西於 菲律賓虐殺時之日本軍司令官陸軍大将山下将文也」と書いてあります。中国語のようです。開戦の首謀者の一人として東条英機 フィリピン虐殺では日本陸軍大将山下将文(マレーの虎)を弾劾しているのでしょうか。誰がこんなことを日の丸に書き、どういう経緯でここで展示されることになったのでしょうか。

先は長いので車に戻ります。アリゾナ州に入ってすぐを北上して、Poston Memorial Monumentへ向かいます。

第二次世界大戦中、日系アメリカ人たちが強制収容されていたキャンプの跡地です。二年前に訪ねたマンザナ―では当時の様子がある程度保存されていますが、ここはモニュメントだけ。一度は通り過ぎてしまいましたが、何とか見つけることが出来ました。小さな消防所の隣でした。ここはまだ、米軍が演習していたエリアの中のはずです。

17,867人もの人が暮らしていたポストンは、その人口増加によって一気にアリゾナ州第二の都市になったといいます。その一人には芸術家のイサムノグチも含まれます。彼が住む東海岸では日系人強制収容はされていなかったのですが、同胞のために何か…と訪ねてきて、しかし収容されている人と打ち解けることはなく、帰ろうと思った時には日本人の血が半分入っているので簡単には出られなかったといいます。自分の血に1/16以上日本人の血が入っているとその対象になりました。

出かける前にちょうど、柳田由紀子さんの著書を読んでいましたので、少しでも心を寄せることができたかと思います。アメリカで生活する日本人として、この方たちのことは決して忘れず、感謝の気持ちを持ち続けたいと改めて肝に銘じました。

二世兵士 激戦の記録: 日系アメリカ人の第二次大戦 (新潮新書)

二世兵士 激戦の記録: 日系アメリカ人の第二次大戦 (新潮新書)

一路Phoenixに向かいます。ちらほらとSaguaro Cactusが見えてきます。サワロサボテン(ベンケイチュウ)はアリゾナ南部からメキシコにかけて生息するとても大きなサボテンです。

だんだん空が広がってきました。LA辺りとは全く違います。本当に広々としていて、日の入りを背にしてすらこの夕焼けのグラデーション!

宿に着いた時にはとっぷりと暮れていました。